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私の一番の印象

避難所

これは21日の8時頃の写真です。避難所でみんな協力して助け合い、水や食料などを運んでいる様子が見られます。
この町を襲った津波は被災者にとって永遠に消えないトラウマを植え付け掛け替えのない思い出をも全て奪っていったでしょう。
私は東京に住んでいますがこの現状を見て人ごとに感じず共感性さえも持ってしまい、心が痛くなりました。
しかし人々は今自分でできることに最善を尽くし、希望を忘れずにまっすぐ生きている姿に私は感動し、もの凄く美しく見えました。
私も自分に出来ることで、少しでもあなた方の役に立てればと考えています。遠く離れていても仲間がたくさんいることを忘れないでください。
自衛隊の皆様と協力して一刻も早く再建されることを願っています。

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被災地の写真とその時刻

塩釜から海沿いに時間の経過とともに写真を紹介します
21日3時
21日3時
これが初めて目にした地震の被害がよく分かる建物です。
揺れで外壁が剥がれています。ここまでは瓦礫が道の隅っこに片づけられていた。


21日3時20分
21日3時20分
最初の写真から車でわずか20分ばかり経過したところからは町の様態は激変し瓦礫の数が増え、道路の整理があまり整っておらず、車での移動が困難になり始めた。


21日4時40分
21日4時40分
写真では分かりにくいですがこれは海から近い道路です。
なんと道路が陥没していて乗用車が落ちてしまい海水が流れ込んで池になっていました。


21日5時
21日5時
ここから津波による被害が出ています
車や家具が流されて隣の家の中までぎゅうぎゅうに押し寄せられています。
あたりはいまだに海水で水浸しになっていました。


21日5時20分
21日5時20分
2艇の船が壊れた橋の上に横たわっています。電線がヨットのマストが引っかかって垂れ下がっていました。感電の危険性があります。


21日5時30分
21日5時30分
これは漫画館です。元の位置から大きくずれていて民家の上にのしかかっています。
これほどの大きな建物がそのまま移動して建物入口が宙に浮いている状態です。


21日AM6時20分
21日AM6時20分
女川町の海沿いの町を撮った写真です。
見渡す限りの瓦礫です。奥の方の建物はまだ原型を留めていますが、損傷が大きくおそらく取り壊される運命でしょう。


21日6時50分
21日6時50分
女川町の海付近にて、家が建っていました場所です。
建物の基礎と土台だけ残してその上すべてを津波が持って行ってしまいました。
また高台との被害の差がよく分かります。

21日7時30分
21日7時30分
建物屋上に民家の屋根の残骸が乗っかっています。
6メートルの津波の力は想像をはるかに超えていました。


21日7時40分
21日7時40分
自衛隊の方々朝早くから御苦労さまです。
朝5時くらいから活動を始めているのを確認いたしました。


21日8時
21日8時
これは山が土砂崩れを起こしています。
しかし津波に比べれば被害は小さいです。



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東北地方太平洋沖地震の報道と真実

3月20日
東北地方太平洋沖地震とは実際にどのようなものだったのだろうか?
被災地での被害報道では食料や薬、電池、衣類、ガソリン等は不足していて物資が地震の影響でなかなか届けられない、または援助要請が無いと言われています。
その現状を実際に行って、見て、体験し、真実を突きとめるため宮城県に行ってまいりました。

私はNPOの一人として東京大学庭師倶楽部の宮亮介さんと宮江介先生の助手をさせて頂き、3人で食料などの援助物資を持って行き、現地被害の写真撮影をしました。

宮城県に行くための順路は東京からPM6時に出発して国道4号線を北の方にひたすら真っすぐ行きました。宮城県内からは塩釜から石巻に行き、女川町まで行きました。
女川町からは国道4号線から国道45号線に移り、県道398号線を通って女川第二小学校まで行きました。
21日AM6時半頃に女川第二小学校に到着して持ってきた救援物資を届けました。

学校は避難所であり、特に医療品が不足していたので我々が物資を届けてくれたことを学校側は非常に喜んでくれました。
結果的に我々のような一般人でも宮城県に行けて、物資を届けることができたことが証明されました。

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